小説「となりのひと」seasonⅡ となりのバーさん
序
ここは東京、世田谷。公園の緑を望むマンションで、私は妻と二頭の愛犬と共に穏やかな日々を過ごしていた。しかし、2020年の春。海の向こうから舞い込んだ厄介な流行り病が、その平穏を根底から覆した。
街からは活気が消え、代わりに漂い始めたのは死の影だった。特に高齢者たちは、出口の見えない恐怖の中で孤独に死と向き合うことを強いられた。追い打ちをかけるように発出された外出自粛の要請は、形を変えた「孤独刑」のようでもあった。

近所付き合いという唯一の接点を断たれた老人たちは、静まり返った部屋で独り、ボケや孤独死の恐怖に震える。住み慣れたこの場所を捨ててでも、安全な地方へ逃れるべきか。「疎開」という、今の時代には似つかわしくない言葉が現実味を帯び始めた。
それは、あの重苦しく、暑い2020年の夏の記憶である。
小説「となりのひと」のふかぼり解説動画です、ご覧いただくと状況が詳細にわたって伝わってきますのでご覧ください。
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第一章 辿り着いた村

リモートワークの普及で混雑の消えた郊外行きの電車を乗り継ぎ、私たちは「疎開先」へと向かっていた。今の住まいから電車とバスを乗り継いで二時間半。東京都内とはいえ、そこは山あいの斜面にへばりつくように点在する集落だった。押し寄せる高齢化の波を象徴するような、いわゆる限界集落。ポツリポツリと建つ家々の中には、生活の匂いすら絶えて久しい廃屋も混じっている。だが、この朽ちていくような静けさが、今の私にはなぜか心地よく感じられた。
近隣には、道路を挟んで左右に一軒ずつ、そして少し奥まったところにもう一軒、合わせて三軒の家が見える。すぐ隣という距離ではないが、この地では立派な「お隣さん」だ。(仲良くやっていかなければな……)そんな殊勝な覚悟を胸に、私は引越しの荷解きを急いだ。
夕刻、片付けに区切りをつけて挨拶回りに出る。まずは向かって左の家、続けて右、最後に奥の家。しかし、どの玄関で声を張り上げても、三軒とも応答はない。「……まあ、まだ早い時間だしな。出直そう」私は自分に言い聞かせ、一度家へ引き返すことにした。

帰る道すがら、辺りは急速に夜の闇に飲み込まれていく。手持ちの懐中電灯だけが頼りだ。慣れない夜道を、足元を確かめながら慎重に歩く。それにしても、暗すぎる。かつて住んでいた街なら、一晩中どこかの看板や街灯、行き交う車の灯りが道を照らしていた。足元を照らす電灯など、持ち歩いたことすら無かったのに。ここは疎開先なのだ。仕方のないことだと、自分を納得させる。家に着くと、愛犬の「いちご」が私たちを歓迎する声を上げた。静まり返った田舎の夜に、その声が驚くほど大きく響き渡る。(ご近所迷惑にならないだろうか……)都会にいた頃の癖で、つい周囲を気にして胃がキュッとなる。近所といっても、あんなに離れてはいるのだが。
翌日。日が落ちかけ、空が紫に染まる頃、私は再び挨拶に向かった。順番などどうでもいいはずなのに、一度決めた通り「右側の家」から訪ねるのが私の性分だ。呼び鈴を鳴らす。返事はない。少し間を置いて、もう一度。……やはり無言。
少し離れた位置からその家を観察してみる。月明かりの下で見ると、家屋はひどく朽ちているようにも見えた。空き家なのか、それともたまたま留守にしているだけなのか。
あれこれと推測しながら、私はその場を後にした。
その時だ。背後で、何かが小さく鳴ったような気がした。振り返ると、遠くに先ほど訪ねた家の窓が、ぼんやりと薄暗く光っているのが見えた。
「え……?」
見間違いかと思い二度見したが、確かに明かりが灯っている。居たのだ。きっと、何らかの理由で応答できなかっただけなのだ。私は自分を納得させるように、家路を急いだ。「今夜はもう遅いから、また明晩にしよう」隣を歩く連れ合いの花奈(はな)さんにそう話しかけながら、私たちは暗闇の中を進む。

花奈さん。私の「ばーさん」であり、この物語の伴走者だ。そして私は、この物語の主人公の一人、専太(せんた)。もう一人の主人公は、元気に尻尾を振る「いちご」。この「二人と一匹」が、疎開を決断した者たちだ。この村、この限界集落で。不思議な人間模様と、現代の歪みが織りなす、私たちの新しい物語が静かに始まった。
次回改訂版をお待ちください。

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